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福田 衣里子

福田衣里子 元気になったこの体で多くの命を救いたい

福田衣里子
1980年生まれ。大学生だった2001年、出生時に投与された血液製剤によってC型肝炎に感染していることが判明。04年、実名を公表して薬害肝炎九州訴訟の原告になる。その後、二度の治療によって肝炎は完治。「薬害肝炎救済法」の成立に尽力する。09年には衆議院議員選挙に民主党から出馬して初当選。「命をつなぐ政治を!」を信条に、国会議員として活躍している。著書に『がんばらんと!』(朝日出版社)など。

原告になりたくてもなれない人がたくさんいた。

福田さん
京谷
初めてお会いしましたけど、やっぱりテレビで見るより小柄ですね。
福田
よく言われます(笑)。
京谷
福田さんは、ご自身のC型肝炎の感染が分かってから、二度治療されたり、薬害肝炎訴訟の原告になったり、いろいろな経験をされていますが、振り返って一番つらかったっていうのは?
福田
その時その時つらかったと思うんですけど「のど元過ぎれば」というか、忘れていくんですよね。つらかったこと……、そうですね……、インターフェロンの治療も、髪の毛が抜けたり、全身がかゆくて仕方なかったり、高熱が出たりして、きつかったですけど、やっぱり精神的に一番つらかったのは、自分が原告になった薬害肝炎訴訟が解決に向かうにつれて、誹謗中傷が出てきたことですかね。ブログや掲示板に、匿名で言いたい放題、言いっぱなしにされましたからね。面と向かって言ってくれれば、「違うやろ」って言い返せるんですけど、誰が言ってるか分からないからそれもできない。こっちは純粋な思いでやってるのに、こんなことをわざわざ言う人たちがいるんだって。人間の醜さ、恐ろしさを目の当たりにしましたね。
京谷
そのつらさや葛藤は、どうやって乗り越えたんですか?
福田
自分は試されてるんだ、と思うようにしましたね。これを乗り越えなければ、それだけの精神力がなければ、その先には進めない、成し遂げることはできないと。一応、一回はへこむんですけどね。でもそこで終わるんではなくて、こういう試練も必要なことだと思うようにしました。やめようと思えばいつでもあきらめられるし、投げ出したって別に自分は痛くもかゆくもない。でもやっぱり命がかかった問題だっていう使命感も芽生えていましたからね。
京谷さん
京谷
そうやって常に前に進むことができる福田さんの原動力って何なんでしょう。
福田
何ですかね。目の前に与えられたことを、ただやってきただけですけどね。
京谷
すごく共感できます。ぼくも、交通事故に遭って目標も何もない時に、目の前にあることだけを乗り越えようとしたんです。そしたら自然と、夢とか目標が見つかりました。
福田

そんなもんだと思うんですよ。あまり無理して探さなくても、あっちからやってくるというか。私もあんまり考えて行動してないのが現実で、導かれるようにしてここまで来た感じです。生まれてすぐにC型肝炎に感染して、20歳でそれを知った時も、最初は知らなきゃ良かったと思いましたし、運悪く自分だけが病気になったって思いました。でも実は運良く感染が分かったので、治療することができたわけです。そして、気づいてない人たちはどうしてるんだろうってだんだん心配になって。20代で感染してる人がほかにもいるっていうことを伝えなきゃいけないっていう責任を感じました。

訴訟の原告になったのも、原告になりたくてもなれない人がほとんどの中で、自分はできる立場にいる。だったらやらなきゃいけないと思ったんです。薬害訴訟の原告になるには、当時のカルテなどで薬害の証明をしないといけないんですけど、カルテの廃棄などで証明できない人、つまり、原告になりたくてもなれない人がたくさんいました。望んでもできないことってたくさんあるので、できる立場の人がやらなきゃいけないって思いました。

難民キャンプに生まれた子と、日本に生まれた子の生活は全然違いますよね。難民キャンプの子は明日食べることが心配。でも日本人はご飯だって家だってある。何か不公平、何でだろうって小さいころから不思議に思ってたんですけど、日本に生まれた私は、食べることは心配しなくていい代わりに、やらなきゃいけないこと、悩まなきゃいけないことがあるのかなって、自分の中で解決したんですよ。

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