HOME  >  チャレンジャー  >  石黒 由美子

チャレンジャー

転職支援サービスに申し込む

石黒 由美子

石黒由美子(北京オリンピック シンクロ日本代表)人生は思い描いたとおり。その先のずっと先まで決めておいた人が勝ち!

石黒由美子
1983年生まれ。小学2年生の時、交通事故にあい、顔を540針、口の中を260針縫う大けがを負う。治療中に見たシンクロナイズド・スイミングに憧れ、翌1992年から競技を始め、愛知県で初めて誕生したシンクロのクラブ「ザ・クラブピア88」に入る。網膜はく離や難聴、顔面麻痺の重い後遺症を克服し、努力を重ね小学校高学年の部で全国5位に。その後も成績を伸ばしアテネ五輪(2004年)を目指すが、僅差で代表を逃し一時は競技から離れる。その翌年復帰し、2007年のスイス・オープン ソロで優勝。2008年に北京五輪出場を果たす。また、練習の傍ら愛知教育大学にて教員免許を取得。現在は小学校、看護学校で教員を務めながら、神戸大学大学院博士課程で博士号取得を目指している。

自身の入院中に、大けがを負い人生のどん底にいる多くの方々と触れ合ったことで、そんな皆に夢と希望を与えられる人になりたい、と努力を重ねた石黒さん。『夢ノート』に将来の夢を綴り続けている努力家で前向きな彼女の言葉には、目標を達成するためのセルフコントロール法など「思い描いた自分」になるための大きなヒントが隠されている。

人を拒絶し一人の世界にこもったあの頃。再起のきっかけは友人の涙

石黒さん
京谷
僕がラブコールを送って念願叶って実現したインタビュー。よろしくお願いします。シンクロは長い時間息を止めたり水の中で動き続けたり過酷ですよね?事故の後遺症もある中、競技を続けられた原動力は?
石黒
自分のためだけなら、「目が見えないから」「耳が聞こえないから」「身体が思うように動かないから」と辞める理由は山ほどあったんです。それでも、続けられたのは応援してくれる皆の喜ぶ顔が見たいという、それだけです。
京谷
アテネ五輪で代表の座を逃したとき、事故にあう前からずっと「書けば夢が叶う!」と自分の目標や夢を書き綴った『夢ノート』も破り捨て、シンクロからも1年離れてしまったとか。そんな人生最大の挫折、どん底の状態から這い上がるきっかけは?
石黒
アテネ五輪の代表を逃したことは心が折れた100%の原因ではないんです。その他にも、教育実習の大事なときに日本代表の行事が重なり単位を落として留年が決定したり、寝ないで活動していたため太ってしまい代表合宿で「もう辞めろ」って帰されたり。あれもこれも重なって折れてしまったんです。あのときは心が空っぽで無気力、人との関わりも嫌で一人の世界を作っていました。頑張るなんて絶対したくなかった。家も出て一人で暮らして、行ったこともない居酒屋でバイトをしたり。自分のことを誰も知らない場所に行ったら心がスッとして伸び伸びやれました。あの当時は落ちたまま、這い上がってはいないですね。
京谷
その間も五輪は頭の片隅にあったんですか?
石黒
シンクロのことは見ないように、考えないようにって。考えると悲しくて苦しくて仕方なかったんです。そんな中シンクロを再開したきっかけは友人です。インフルエンザにかかったとき、私から付き合いを拒絶してしまった先輩や友人が看病に来てくれて。そんな無償の愛にただ感動したんです。それで「こういう女性になりたい」っていう目標ができました。自分が辛いときに、人を応援してみると自分まで元気になるということにも気付いたんです。それがきっかけで徐々に人と会うようになって、大学にもまた通い始めました。あるとき水泳部の友達が「由美子のシンクロ見たいな」って言ってくれたんです。それでシンクロを少しやって見せたら、部員たちが感動して泣き出して…。その涙を見て、私のシンクロが人を感動させて喜んでもらえるって思ったら、もう一度やりたい気持ちが湧いてきたんですよね。
石黒さん
京谷
トップ選手が1年ブランクを空けて復帰するのはかなり難しいですよね。
石黒
皆のためとなると、負けるわけにいかないと思って強くなれました。私が離れていた1年間にシンクロも進化していて、以前は両手を上げて肩の下まで水面から出れば評価されたのに、1年後には胸下まで水面から出て当たり前になっていたんです。でも、本当の闘いは五輪代表に選ばれてからでした。10位までなら経験があるので前を向いて進むだけだった。でも、自分の境界線を超えて五輪チームに選ばれると全てが未知の世界なんです。また、一般的に五輪メンバーは、4年後の五輪に照準を合わせて1~3年で練習を重ねます。その3年間に団結したチームの集大成として、4年目の五輪がある。それなのに私は北京五輪前にチームに入ってしまったので、他の8人の選手は納得いかないですよね。積み重ねてきた経験でわかることを教えてくれる人がいなくて、ほんとに苦しかった。もう毎日辞めたかったですね。
京谷
それでも踏みとどまることができたのは、いろいろな人の思いを背負っていたから?
石黒
過去に大けがをして後遺症を克服した私が、五輪に出場して夢を叶えたら、「どれだけの人の夢と希望になれるんだろう」っていう思いでした。五輪前の私は例えて言うなら“真っ暗な海に投げられて光が一筋もない状態”だったけど、夢を叶えたときに私の放てる光が“真っ暗な海に照らす灯台”のようになれる気がして。それだけが希望でした。
京谷
北京五輪の舞台に立ったときの思いは?
石黒
感謝です。よくぞここまで来れたと。支えてくれた家族、先生、友達。自分が辛いときに八つ当たりしてひどいことを言ってしまったのに受け入れて応援してくれた方々。でも、メダルを落としたのはシンクロ史上初で日本は敗退だったんです。メダルを獲ってこそ、自分の経験を語れると思っていた私は、その結果にザーッと血の気が引いてしまいました。でも、新聞で80年ぶりに陸上トラック種目で銅メダルを獲った男子400メートルリレーの記事と同じ大きさで「石黒由美子 事故の後遺症を乗り越え夢を叶える。母の誕生日に五輪で泳ぐ!」って載ったんです。日本から「これで皆に知ってもらえたね!」ってメールや電話がいっぱい来ました。それがきっかけでテレビ出演や本の出版の話をいただいて。こうして夢が繋がっていったんです。
京谷
テレビの出演や本をきっかけに石黒さんの経験が多くの人に伝わりましたよね。今も自分の経験を伝えられる環境にいらっしゃいますよね?
石黒
小学校や看護学校で先生をやらせてもらっています。今思えばシンクロを辞めていた1年があったおかげで教員免許が取れて先生という道が開けたんですよね。あの1年があったから私の道がいい方向に180度変わったと言っても過言ではないんです。

転職お役立ち情報