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工藤 公康

工藤 公康(野球解説者・野球評論家)広い世界に目を向け、周りの声ではなく自分の心の声を大切にしてほしい

工藤公康
1982年ドラフト6位で西武ライオンズに入団し、エースとして活躍。1994年オフ、FAにより福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)に移籍。1999年オフにFAで読売ジャイアンツに移籍。2004年8月17日、プロ野球史上23人目の200勝を達成する。2007年~09年横浜ベイスターズ、2010年埼玉西武ライオンズでプレー。現役最多の224勝(2010年終了時点)を挙げ、2011年12月9日に引退。 
2006年までに在籍した3球団(西武、ダイエー、巨人)でリーグ優勝と日本一を経験。「優勝請負人」の異名を持ち、最年長記録を次々と更新し「鉄腕」と呼ばれる。

幼少時代「実は野球が好きではなかった」と答える工藤さん。周りが放っておかなかったその才能を開花させプロ野球界で長い現役時代を過ごすこととなる。家族の協力のもと、自らも見聞を広げ自己啓発に乗り出した結果「たくさんの人」「新しい自分」との出会いを手に入れた。その厚みのある温かい人柄は今でも多くのファンを魅了し続けている。

メジャーリーガーの野球に対する姿勢を見て、僕は変わった

工藤さん
京谷
実は私、昔から工藤さんに影響を受けて続けていることがあるんです。 10年以上前に工藤さんが「ファスティング(※デトックスとしての断食)」をやっている、という新聞記事を読んで、それから毎年必ず年始に行っているんです。
工藤
そうなんですか!?
京谷
年齢を重ねても、アスリートとしてベストコンディションを保つためには今の自分から変わらないといけない。そう思っていたら、工藤さんの記事が目に入り、これだ!と思って10年以上続けてきました。引退した今も、これを年初めにやらないと1年が始まらない気がして・・・(笑)
工藤
野球は遠征が多いので、地方へ行くとどうしても焼き肉などの外食が増えてしまうんです。
そんな偏った食生活を妻がいろいろ気を遣ってくれて、家にいるときは栄養をきちんと考えた食事を作ってくれました。遠征中にどうしても食事で補給できない栄養はサプリメントで補ったりしましたが、そのあたりも妻が勉強してくれたので助かっていましたね。おかげでその知識が僕にも身に付き、講演会でも使えるネタになったんですよ(笑)
京谷
そういった知識は、そう簡単に頭に入るものではないですよね。
工藤
実は結婚前、僕は医者から肝機能が良くないと言われていたんです。
結婚する時に妻とそのことについて話をしました。そこで、僕自身はトレーニングの勉強をして体のメンテナンスをしていく、妻は食生活の面で僕をサポートしていく、というようにお互いがやるべきことをきっちり確認し合ったんです。
それから妻は、たくさんの料理本を買ってきては目に留まったレシピを切り抜いて保管していました。食材にもかなりこだわっていて、僕が遠征で地方へ行った時には、妻から言われた農家へ出向き直接契約をして、食材を送っていただいたりもしました。
京谷
徹底された健康管理でしたね。
工藤
その農家の方とお付き合いをしていくと、自分たちが本気で取り組んでいることをわかってくれるんです。そうすると、また別の信頼できる農家の方を紹介してくれたりして・・・。
ある事に対して本気で向き合っていると、自然と同じ気持ちを持った人たちが周りに集まってくるんですね。そこで生み出される皆の行動力や知識が、また自分の糧になるんです。
京谷
なるほど。工藤さんが長年プロ野球界でご活躍できたのも、そんな方々との強い絆があったからなんですね。
話は変わりますが、工藤さんがプロ野球選手を夢見るようになったきっかけは何だったんですか?
工藤
夢ですか・・・僕はちょっと他の人とは違うんですよ。
父親が野球好きでよくキャッチボールをしていたので、小学生の時は野球部に入っていました。でも、実は僕自身、あまり野球が好きではなかったんです。どちらかと言うと嫌いなほうでしたね。なので、中学校へ進学したら、野球部ではなくハンドボール部へ入りました。1年生の終わりごろ、3年生が抜けてこれでレギュラーだ!と思っていたら、ハンドボール部の監督から「何でお前は野球をやっていたのに、野球をやらないんだ?」と言われました。
小学生のころ、県内でも強いチームでプレーしていたので・・・。
そこで、ハンドボール部にいた僕と野球部にいた部員が入れ替わったんです。人生初のトレードでしたね(笑)
京谷さん
京谷
小さいころからずっと野球選手を夢見ていた・・・ではなかったんですね。
工藤
僕の家はあまり裕福ではなかったので、中学校を卒業したら高校へは行かずに働きに出る予定でした。でも中学校3年生の春に、僕の投げている球を見ていた学校の用務員の方から、「君はどこの高校へ進学するのか決まっているのかね?」と聞かれました。
僕は「高校へは行けないので、中学で終わりです。」と答えたら、「特待生の制度を使って行ってみたらどうだ?」とアドバイスをくれたんです。
 
早速父親に相談してみたら、特待生でお金がかからないのであれば行っても良いと許可が出たので、いくつかの高校の練習に参加しました。そこで声をかけていただいた学校へ、特待生で進学することになったんです。
京谷
用務員の方の一言で、大きく人生が変わったんですね。
プロ野球を意識し始めたのもこのころからですか?
工藤
プロを意識し始めたのは甲子園へ行ってからです。自分にはこれ(野球)しかない。これで食べていくんだ、という気持ちになりました。
でも、父親は「プロで活躍できるほど、この世界は甘くない。」と反対し、しかも各球団に「ドラフトで指名しないでほしい」と書いた手紙を送っていました。
それでも指名をしてくれた球団が西武ライオンズだったんです。
京谷
そんな経緯があったんですか。西武ライオンズはどうしても工藤さんが欲しかったんですね。そしてその後、西武の黄金期を支える名選手へと成長されていかれると。
プロの世界ではいろいろな挫折もあったかと思いますが、モチベーションを保つためにどんなことをされていましたか?
工藤
新人の時は大変でした(笑)先輩の荷物持ちやスパイク磨き、運転手までやる時代でしたから、最初の1、2年は苦痛でした。
3年目に野球留学でアメリカへ渡ったことが転機になったんです。そこで見たものは、1A(※1)の選手たちの野球に対する姿勢でした。メジャーリーグでは、1週間や10日間ですぐクビになることがあります。それでも選手たちは、「たまたまここが駄目だっただけだ」とすぐに気持ちを切り替えて、また次のチャンスが来ることを信じ、ひたすら練習に励むんですね。
その練習のやり方ひとつとっても、「やらされる練習」は一切しない。コーチにこれをやれ、と言われても自分が納得しないとその練習はしないんです。
メジャーリーガーたちの野球に対する姿勢を見て、俺は何をしていたんだと感じましたね。日本へ帰ったら、自分の意志をしっかり持って練習に取り組もうと思いました。どんなにキツイ練習メニューでも、「やらされている」のと「やる」のとでは、モチベーションや持続性が全然違ってきます。その後、球速が10キロも早くなりました。
この経験を通して、人は変わろうと思えば変われるんだ、ということを知りましたね。
 

(※1) メジャーリーグの階層 3A(トリプルA)2A、1A

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