放送作家の高須光聖さんがゲストの方と空想し、勝手に企画を提案する『空想メディア』。
社会の第一線で活躍されている多種多様なゲストの「生き方や働き方」「今興味があること」を掘り下げながら「キャリアの転機」にも迫ります。
今回のゲストは、タレント、ミュージシャン、国際ジャーナリストとして活躍するモーリー・ロバートソンさんです。
高須さんとモーリーさんは、同じ1963年生まれ。同い年の2人が集まれば、青春時代の話に花が咲きます。明るいキャラクターで知られるモーリーさんですが、青春時代は意外と複雑な想いを抱いて過ごしていたそう。現在のモーリーさんのルーツが垣間見える青春時代のお話、前編をご覧ください。
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モーリー・ロバートソン モーリー・ロバートソン 国際ジャーナリスト、ミュージシャン、コメンテーター、DJといった多岐な分野で活躍。 日米双方の教育を受け、1981年に東京大学とハーバード大学に同時合格する。
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高須光聖(たかす・みつよし) 放送作家、脚本家、ラジオパーソナリティーなど多岐にわたって活動。
中学時代からの友人だったダウンタウン松本人志に誘われ24歳で放送作家デビュー。
アニメの影響で日本好きに。似顔絵で生徒会長に当選した“変わり者”の少年時代
高須:モーリーさんは幼稚園ぐらいまではニューヨークで育ったんですよね。
モーリー:そうです。アメリカから広島県に家族で引っ越してきました。
高須:引っ越してきた当時はどうでした?僕らが小学校の頃は、外国の方に会ったら荒井注のマネをして「This is a pen!」って話しかけて喜んでいるような時代じゃないですか。
モーリー:俺が英語で「This is a pen」って言うと、日本人の友達が二重の意味で笑うんですよね。俺は荒井注のネタだって分かりながらカスタマイズして言っているから。そんな子ども、日本に百人いなかったと思いますよ。ドリフも初期のドリフを観ていました。
高須:完全にお笑い好きの日本の子どもですね。
モーリー:お笑いと同時に『チキチキマシン』なんかのアメリカアニメも観ていたけど、あれうっすらと英語が聞こえるんですよ。吹き替えの消し忘れが。その英語と日本語を二重に聞きながらアニメを見ていたの。
高須:変わり者ですね、小学校の時から。
モーリー:そう。でも小学5年生の時に級友の勧めで生徒会長に立候補したの。友達の西村君に「お前がお前らしく振る舞えばみんなついてくるんじゃ」って言われて。
高須:そうなんですか。
モーリー:それまで僕は「そばかす」ってからかわれて、よく小競り合いをしていたの。でも生徒会選挙の公約ポスターにみんなが公約を書いている中、あえてそばかすの似顔絵を描いたんです。それが受けて圧勝して、生徒会長になっちゃった。
高須:すごいな。僕がもし海外に行ってその状況だったら怯んで後ろ向きになると思うんですけど、全然後ろ向きにならないですね。
モーリー:当時は怖さを知らなかったっていうのもあるし、日本のアニメへの愛情があったから。『ゲゲゲの鬼太郎』とか『みつばちハッチ』といったアニメで垣間見た世界が素晴らしすぎて。当時の日本のアニメって弱い立場の人を庇うじゃないですか。そういった感性がすごい好きだったんじゃないかな。
高須:日本に来てからそういうコンテンツを見るようになったんですか?
モーリー:日本に来た5〜6歳の時に『ゲゲゲの鬼太郎』を観てお化けが大好きになっちゃって。おばあちゃんに鬼太郎のちゃんちゃんこを編んでもらったの。
高須:黄色と黒のね。
モーリー:そうそう。作ってもらったのに、「漫画と寸法が違う!」ってクレームつけてた(笑)。そんな感じで日本への愛情が強すぎたから、環境の変化にも後ろ向きにならずに突破しちゃったんじゃないかな。
ハーフであることがコンプレックスに。2つの国を行き来して培われた日本気質とアメリカ気質
モーリー:子どものころ嫌だったのが、父が日本語を話さなかったこと。日本で医療をやることでてんてこ舞いで、日本語を覚える暇がなかったんです。だからお母さんが全部同時通訳しまくったんですよ。それに負い目を感じました。「なんでお父さんは日本語をちゃんとやらないんだ。俺がしゃべれるんだぞ」みたいに。でも、中学に入ってからのほうがしんどかったですね。英語がしゃべれちゃうんで。
高須:英語の先生なんてモーリーさんの前で恥ずかしくてしゃべれないですよね。
モーリー:うん、緊張してたみたい。でも出席番号順に全員が当たって「Mike goes to school on Sunday」なんて言っていくじゃないですか。ぼくに回ってくるのをみんなワクワクして待っているんです。そしてぼくが言うと歓声が上がる。それが嫌で仕方なかったですね。「なんで英語ができることで笑われなきゃいけないんだ」と思って。
高須:あの時代に、特に中学生のころでは受け入れられないですよね。
モーリー:無理でしたね。普通の日本人になる方法はないのかと感じて、人と目が合うのが嫌だった時期もありました。結構名門の学校に通っていたんですが、そこの制服を見ているのか、それともぼくの顔を見ているのか気になったんですよ。
高須:多分顔を見ているんだろうなって思っちゃいますよね。
モーリー:うん。路面電車で視線を感じたときの対応が難しかったですね。柔道部らしいいかつい顔をするようにしていました。
高須:柔道部だったんですね! 意外です。
モーリー:中学2年生のときにアメリカに帰ってからも柔道クラブに入るぐらい好きでした。
高須:マンハッタンで生まれて広島のアメリカンスクールに行き、公立進学校に入ってアメリカに戻るって…頭の中が行ったり来たりしませんでしたか?
モーリー:アメリカに戻ったときには完全に日本人の思考でした。アメリカで日本の模範的な振る舞いをしようとしたら、弱いってボコられました。本当に恥ずかしい失敗の連続で。
高須:文化が違いますからね、それまでと。
モーリー:その後カリフォルニアの学校に移ったんですけど、その学校が教師のストライキで閉鎖されたんです。そんな荒れた学校環境の中、ぼくは日本のツッパリのような格好で、ワルの先輩に教わった「とにかく笑いをとれ」って教えのもとふざけていたの。
そうしたら、ストライキで気の立った先生に廊下に引きずり出されて、ロッカーにぶつけられたんですよ。それにすごいショックを受けて、「日本に帰りたい! 日本に帰ったら全部うまくいくのに!」って言ったら親が折れて。広島に1人で帰って下宿することになったんです。
高須:ええ!?
モーリー:高1。やっとガールフレンドもできたときに。
高須:マジですか!? よしこれからアメリカで頑張るぞってときに?
モーリー:しょうがないじゃないですか。
高須:いやしょうがないけど(笑)。でもアメリカに2年もいたから、そこそこアメリカに染まっていますよね?
モーリー:そうですね。すっかり気持ちはアメリカ人になっていましたね。
アメリカ気質が不良扱いに。レッテルを貼る社会への皮肉で東大・ハーバードに合格
モーリー:日本に戻ると、中1のころ同じクラスだった人たちとまた一緒に過ごすようになったわけだけど、みんなタイムカプセルのように変わってないんですよ。
高須:楽しいな、それはそれで。
モーリー:相変わらずギャグ漫画のネタでみんな笑ってて。そこで俺がビージーズの『サタデー・ナイト・フィーバー』の踊りをやったらみんな喜んで、放課後にラジカセでビージーズを流して踊っていました。でも先生に止められて。だからこっそり抜け出してディスコに行っていました。アメリカで学んだ文化だね。
高須:それは日本じゃダメですよ(笑)。
モーリー:商店街で女子高生の集団に会ったときにも、みんなが固まっている中でぼく一人だけアメリカ式に「みんなでお茶飲みに行こうや」って話しかけていました。まるで外来種のブラックバスを琵琶湖に放ったような状態だった。
高須:すごいな(笑)。
モーリー:そんなことを続けていたら、付き合う仲間たちがいわゆる不良の子たちばかりになって。それでぼくも学校で不良扱いを受けたの。
高須:そうなりますよね。しかもアメリカ風を持ってきましたからね。いい意味で。
モーリー:気が付いたら品行方正な子たちからはちょっと遠巻きにされて、悪い子たちばかりで群がるようになっちゃったんだよね。そのうちに学校側から退学を要請されてしまって。それで母の母校である富山の高校に転校しました。でも転校先にも話がいっていたんですよ。
高須:そっちに変なのが行くぞと。
モーリー:転校先では教頭先生に監視されていましたね。編入してすぐの文化祭で世良公則を飛び入りで歌ったんですけど、「やっぱりこいつやばい」って思われたのか、軽音楽部への出入りも制限されるようになりました。
高須:腐ったミカンですよ。学校からすると。
モーリー:軽音楽部もだめだし、エリート校だから女の子もデートしてくれない。だから進学校じゃない高校の子たちとパンクバンドをやっていました。
高須:そろそろ受験という時期ですよね。その後どうなっていったんですか?
モーリー:そのバンドが『カリキュラマシーン』なんてダジャレみたいな名前のふざけたバンドだったんですよ。本当にカリキュラマシーンだったらみんな勉強しているわけだからね。「バンド名どおりに勉強して、パンクなのに東大を受験して合格してやろう」「合格した瞬間に“こんなのうそでした”って東大の前で演奏してやろう」って言ったら、本当に目指すことになって。その場のノリで決まったジョークを実行するために受験勉強を始めたの。
高須:じゃあパンク精神で受験を頑張ったんですか?
モーリー:そうそう。それに、社会がぼくを「よくいるハーフの不良」ってさげすみながら遠巻きに見ることが気に入らなかった。そういった人をあっと言わせるために、「お前らが嫌いな不良みたいなやつが東大に入ったらどうする?」っていうジョークで受験することにしたんです。
高須:ジョークで受験するとは言っても、頭が良くないとできないですよね。
モーリー:英語が先生より分かるわけじゃないですか。受験の追い込み時期にみんなが1日1時間半は英語に費やす中、ぼくはその時間が余るんですよ。それを理系の子が一番苦手だった古文の勉強に充てたの。そうすると順位がいきなり20位ぐらい上がっていったんです。
高須:地頭も絶対いいのに、そこに戦略がプラスされてうまくいったんですね。あとパンク精神ね。そこからさらにハーバードにも行くんですよね?
モーリー:ハーバードでは「あなたのユニークさは何ですか?」っていう論文を書かされるんですよ。戦略によって古文が得意になったので、まじめな顔で「私は1,000年前の日本の古文と呼ばれる言語を研究しているアメリカ人です」みたいなことを書いたんです。
「 “やうやう”と書いて“ようよう”と読み、その理由は定かではありません」「水が流れていないのに枯山水とはこれいかに」なんて詩文のように英語で書いたの。そうしたら審査員の誰かのハートにぶっ刺さっちゃったのね。
高須:誰かどころかどこの大学にも刺さってますよ。
モーリー:スタンフォードも合格したからね。
高須:日本とアメリカをこれだけ往復した中での体験にプラスαで古文まで付いたら、それはなかなか鋭いものになりますよね。その経験はすごいな。
モーリー:そうやって受験勉強をしていたら、最後の2学期ぐらいには不良扱いしていた先生が介入してこなくなったんですよ。
高須:勉強できるからね。
モーリー:ハーバードに合格したことが地元の新聞と全国紙に載ったんだけど、そのときにずっと監視役だった教頭がいきなり褒めに来たんですよ。「よくやってるな」なんて言って。その手のひら返しが許せないよな!
高須:でも気持ちいいですよね、逆に。
モーリー:立場が逆転しているから気持ちいい。やられたらやり返せというほど復讐心は強くないけど。
高須:でもじりじり低温やけどのように攻めていくっていうね。すごいですね。
――モーリーさんの青春時代のお話、いかがでしたか?次回も引き続きモーリーさんに、東大・ハーバード在学時代や現在のお仕事を始められるきっかけとなったお話をお伺いしていきます。お楽しみに。
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