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松岡 一成

白血病を乗り越え、
ふたたび未来へ
明かりを灯す。

松岡 一成

SANJO BEATERS.EXE

posted 2020/04/07

2015年5月、急性骨髄性白血病と診断された。二度に渡る発症、一進一退の治療の先に待っていた壮絶な闘病生活──。それらを乗り越えた男は今、一度は諦めたプロの世界で夢を追っている。「失うものはないので、今できることを必死でやろうと思った」。病魔と戦い胸の内に湧き立った、挑戦への渇望。新潟の地で再起を語るその言葉には、未来に向けた静かな決意が宿っている。

プロ入りを
断り
就職へ

松岡 一成

学生時代のバスケット経験について教えてください。

バスケは学生時代選手だった母親の影響で、小学校2年生のときに始めました。僕は子どもの頃から体が大きくて、6年生で身長が178cmもあって嫌でも目立っていたんですが、バスケをやっているときだけは周囲の目を気にせず伸び伸びと動けたんです。そんなバスケが楽しくて、中学、高校に上がってもずっと続けていました。大学ではサークルの全国大会で優勝を果たすことができ、それなりに充実した学生生活を送ることができたと思います。

プロからのオファーもあったとのことですが、大学卒業後の進路は?

大学卒業時、JBL2(旧日本バスケットボールリーグ2部機構)の3つぐらいのチームからスカウトされたんですが、当時はまだBリーグ発足前だったこともあり、どうしてもプロとしてやっていけるイメージが持てなかった。悩んだ末に就職の道を選ぶことになり、東京にある広告代理店に営業として就職することになりました。そこではビルボードやビジョンなどの屋外広告の企画営業や、工事の日程調整などを行う施工管理などを行っていました。現場に出向くことも多く、朝8時から夜中3時まで仕事することもザラ。とにかく忙しい環境でしたが仕事は楽しくて、忙しさはそれほど苦にならなかったですね。

25歳、
白血病を
発症

松岡 一成

広告業界で活動されていた2015年、白血病を発症されています。その経緯を教えてください。

前兆は2015年の1月頃、仕事の忙しさがピークを迎えた時期に、毎週土日になると38度の熱が出るようになったんです。最初は平日の疲労で熱が出ているんだろうと思ったんですが、その状態が2~3ヶ月治らなかった。病院へ行っても、内科では風邪だと言われ、耳鼻科では扁桃炎だと言われる。でも症状はどんどん悪化していて、仕事で外を歩いたり階段を上るだけでも心臓がバクバクして、立っていられないほどのめまいも起きるようになりました。

そんな状態が続いた4月末のある日、突然世界が真っ赤になった。右目だけで見た景色が赤一色になったんです。後々わかったことですが、そのとき目の中が出血していて、既に血小板が少なくなっていたため自分の出血を止められない状態になっていた。また同時期に、一時間以上鼻血が止まらないことが3度も起き、もうこれはやばいと思って日本赤十字社医療センターで受診しました。結果診断されたのは、急性骨髄性白血病。医師から「今もし転んで頭を切ったら血が止まらなくなって死ぬから動かないで」と言われ、即入院することになりました。

心苦しい質問ですが、病名告知を受けたときの気持ちを教えてください。

白血病と言われた瞬間、頭が真っ白になりました。それまで大きな病気をしたこともなく健康だったし、仕事も3年目で軌道に乗っていて、さあこれからという時期だっただけに本当にショックでした。血液のがんだと聞いて「自分は死ぬのかな」と思ったけど、親にどうやって報告すればいいのかもわからないし、とにかく頭がいっぱいで整理ができない状態でした。

松岡 一成

その後、入院からどのような治療を受けられたのでしょうか。

入院後、抗がん剤治療を行うことになり、もし抗がん剤で治らなければ骨髄移植をするとのことでした。その場合、移植前に行う放射線治療の影響で精子が死滅してしまうリスクがあるため、精子の凍結保存をすることになりました。白血病を宣告された翌日に精子を保存し、その翌日から抗がん剤治療が始まりました。抗がん剤を投与すると一度白血球の数が減少し、そこから一ヶ月ほどかけて回復させるサイクルで根治を目指すんですが、それを4回繰り返して徐々に正常な数値に回復していきました。そして入院から5ヶ月経った2015年10月に退院できることになりました。

“46万分の5”に
懸ける

松岡 一成

退院後は、仕事に復帰されたのでしょうか。

退院してから半年間は自宅療養やリハビリを続け、2016年4月に職場に復帰しました。ただ復帰といっても、白血病細胞がなくなった「寛解」という状態が5年続かないと医学的には完治とはいえないため、まだ半年しか経っていないその時期は毎日が不安でした。子どもの頃は「人生80年」と教えられ、大学を出て社会に出て、定年まで働いて……みたいな人生を想像していたんですが、白血病になってからは5年生きるのが精一杯で、5年後の先が考えられなくなってしまった。「再発したら死ぬんじゃないか」と毎日不安に怯え、生きている心地がしなかったですね。

そして復職から半年後、恐れていた再発が現実になってしまいました。

2016年11月、退院後の定期検診で異常があり、白血病の再発が見つかりました。抗がん剤で治らなかったため骨髄移植に踏み切るしかなくなり、ドナーを探すことに。血液型がA,B,Oの3つの型の組み合わせから成り立っているように骨髄にも6つの型があり、この型が一致するドナーが必要なのですが、当時のドナー登録者46万人のうち、僕とまったく同じ6つの型を持っている人はゼロ人でした。6/6が合致する人は一人もおらず、5/6適合する人がかろうじて5人だけいる状況でした。型が1つでも違うと体が拒絶反応を起こすリスクがあるのですが、もう骨髄移植しか生きる道がないので、46万分の5に懸けることになりました。

松岡 一成

骨髄移植前後の状況について教えてください。

骨髄移植までに、抗がん剤を投与して白血病細胞を減らす「移植前処置」という治療をします。この前処置での抗がん剤は、投与して何もしないと一週間ぐらいで死んでしまうほどの強力なもので、僕の白血病細胞を極限まで少なくした状態にしてからドナーの骨髄液を入れ、細胞を移植します。すると、ドナーの細胞が「自分の体じゃない」と気づいて白血病細胞を攻撃し始めるんですが、同時に僕の体も攻撃してしまう。移植した細胞が正常に機能する「生着」という状態になるまでの3週間は、40度の熱が下がらず、水を飲むたびに嘔吐を繰り返し、血尿も出る日が続きました。この一番抵抗力が下がる状態で亡くなってしまう人もいるんですが、僕は若くて体力もあったのでなんとか乗り越えることができました。

バスケット
への
再挑戦

松岡 一成

治療期間を乗り越えた、その後について教えてください。

2017年4月に骨髄移植をして、6月に退院しました。再発から7ヶ月間入院していたので、退院後は階段を5、6段降りるだけで膝が震え、100m歩くだけで息が上がって起き上がれなくなるほど体力が落ちていました。退院後も一年ぐらいは体調が安定せず、仕事に復帰できる体力はなかったため、休職していた会社を退職。その後リハビリを経て、2018年秋頃から、知り合いのバスケットボールのスクールで週1回程度コーチのアルバイトを始めました。だんだんと体力が戻り、週3~4日働けるようになった頃には「もう一度働こう」という元気が出てきた。そこから転職活動を始め、2ヶ月後に某広告代理店から内々定をいただきました。

バスケットへの復帰はいつ頃されたのでしょうか。

コーチをやりながら少しずつ自分もプレーし始めていた時期に、知人から3人制バスケの大会に誘われたんです。まだ長い距離を走れる体力はないけど、ハーフコートの3人制でなら、自分が得意なゴール下でのパワープレーを生かすことができたんです。出場後は順調に勝ち進み、全国大会の切符を手にすることができました。その大会は全国に進むとプロからのスカウトを受けられる仕組みがあり、現所属の「SANJO BEATERS(三条ビーターズ)」からオファーをもらいました。そのときに、大学を出てプロの道に進まなかったことを闘病中に後悔したことを思い出したんです。一日中ベッドの上にいて、「バスケをやっておけばよかった」と。そこで普通に就職するか、バスケでプロになるかの二択で、迷わずバスケを選びました。

生きている
かぎり
挑戦したい

松岡 一成

三条ビーターズ加入後の活動と、現在の心境を聞かせてください。

2019年に、チーム加入と同時に「地域おこし協力隊」に着任し、バスケットの活動をしながら協力隊として農業や地域交流の活動を行っています。新潟は地縁がなかったし、農業も初めての経験で何もかもが手探りのスタートでしたが、今はとにかくバスケができる喜びを噛み締めています。白血病がきっかけになり、もう一度バスケがやりたいという気持ちが湧き、生きているかぎりはチャレンジしないともったいないと思うようになった。プロの世界は言い訳が通用しない実力の世界なので、コート上では足が攣ろうが翌日動けなくなろうが、とにかく全力で戦ってやろうという気持ちです。失うものは何もないし、ラストチャンスだと思って勝負していきたいと思っています。

松岡 一成

白血病を乗り越え、松岡選手が今後挑戦したいことはなんでしょうか。

2019年の5月から、新潟県加茂市の骨髄バンクでボランティアをしているんですが、そこで小児がんの子どもたちを支援する事業を関係者と一緒に構想しています。たとえば小児がんを患っている子たちに対して自分の経験を通じてサポートする場を作ったり、退院後もなかなか外出できなくなった子たちを家族と一緒に三条市の避暑地に招き、BBQやキャンプをするレクリエーションなどを考えています。
そうした心のケアを通じて、子どもたちが将来のことを考えたり、家族との時間の大切さを感じるきっかけになればと思っています。僕自身、家族の支えがなかったら病気は乗り越えられなかったし、身近にある支えのありがたみや大切さを痛感しました。病気を経験した自分だからこそできる支援の形を、スポーツや地域活動を通じて実現できればと思っています。

松岡 一成

松岡 一成(まつおか いっせい)

1990年4月6日生まれ、茨城県出身。取手松陽高、国学院⼤を経て、2013年に広告代理店に就職。営業職として活動していた2015年5月、急性骨髄性白血病を発症。抗がん剤治療を経て復職を果たすも半年後の2016年11月に再発。翌年4月に骨髄移植を受ける。リハビリ期間を経て、地元茨城でバスケスクールのコーチをしながらプレーを再開。2018年末に出場した3人制の大会での活躍を目にした「SANJO BEATERS.EXE」からオファーを受け、2019年4月に正式契約。副キャプテン就任と同時に、新潟県三条市の「地域おこし協力隊」に着任し“半農半バスケ”に挑戦中。188cm、92kg。

  • Text by Naotaka Ashizawa
  • Photograph by Mao Shimizu
  • Website Design by Sonoko Hayashi
  • Art Direction by Junya Sakai
  • Coding by Aki Kuroda
  • Photo Provided by 3x3.EXE PREMIER

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