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リガーレ仙台を知ってもらい
応援してもらえるチームに

リガーレ仙台佐藤 あり紗さん

バレーボール

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佐藤 あり紗(さとう・ありさ)さん 29歳
リガーレ仙台

全日本を経験した一線級の選手が地元愛を貫き、29歳で故郷の宮城、仙台に戻ってきた。そこにはVリーグクラブも、トップレベルの環境もない。引退してバレーボールの育成、普及活動に専念する道もあったが、リガーレ仙台の発足によりすべてが変わった。「毎年辞めたいと思っていた」気持ちは「できるだけ長くやりたい」に変わった。(2019年4月11日取材)

2012年に加入した日立リヴァーレを離れ、2018年にリガーレ仙台へ[写真]新井賢一

宮城、仙台に恩返しを

2018年に日立リヴァーレを離れ、リガーレ仙台に加入しました。

東北福祉大学を卒業して、いろいろなめぐり合わせがあって、茨城を拠点とする日立リヴァーレに加入したんですが、本当は仙台を離れたくなかったんです。私が大学生のときに仙台ベルフィーユ(2011年設立、2017年解散)というチームができて、そこでプレーしたいと思っていました。でもそれがかなわず、日立に加入したのですが、心の片隅では「いつか仙台で」という思いを持ってプレーしていました。

日立を離れる際は、移籍希望を出したそうですね。

はい。そのときはリガーレ仙台がまだなかったのですが、「仙台にチームができるかもしれない」といううわさはありました。ただ仮にそのチームができなかったとしても、宮城の方々、仙台の方々には本当にお世話になったのでいつかバレーボールで恩返しがしたいと思っていて、日立を退団すること、仙台に戻ることを決意しました。選手を続けられなかったとしても、バレーボール教室など育成や普及などでお手伝いができればと。もっと言えば、実は2016年に日立との契約形態を変えてプロ選手になっているんですよ。それはベルフィーユへの移籍を視野に入れてのことだったんですが、その翌年にベルフィーユがなくなってしまって(苦笑)。でも仙台に戻りたい気持ちが強かったので2018年に退団しました。

そうした中、2018年8月にリガーレ仙台が設立されました。

仙台に帰ってきて、高校時代の恩師にあいさつに行ったときに、「新しいチーム(リガーレ仙台)ができるぞ。そこに入ったらどうだ」と勧められ、クラブの関係者とお話しして加入することになりました。宮城の方々は私が戻ってくるとは思っていなかったみたいで(笑)、でも帰ってきて声をかけていただき、選手を続けることになりました。

競技生活を離れる可能性があった中で、地元帰還を決意した[写真]新井賢一

スポンサー回りや広報活動も

企業チームを離れるにあたって、周りの反応はいかがでしたか?

私の仙台愛、宮城愛を知っている人は「やっぱりね」という感じでした(笑)。中にはトップレベルではない環境でバレーボールを続けることを心配する人もいましたけど、私自身はまったく気にしていません。それよりも仙台でバレーがしたい気持ちが強かったんです。確かにトップレベルでプレーする楽しさもありますけど、そこを目指しているチーム、しかも地元仙台のチームでプレーできて、今は違うワクワク感があります! ただ、ここに至るまで日立の方々の支えがなかったら日本代表選手になりリオデジャネイロに行くこともできなかったと思います。本当にたくさんの経験を積ませていただきました。今は日立でプレーできて本当に良かったと思っていますし、今まで歩んできた道に後悔はありません。

なぜ、そこまで地元愛が強いのだと思いますか?

宮城ではいい人にしか出会っていないんですよ(笑)。子どものときからバレーボールをやる環境、周りの人たちに恵まれていましたし、中学時代は掛け持ちでいろいろなチームや部活でプレーさせてもらいましたし、自分にとっては本当に大切な場所なんです。だから何かの形で恩返しをしたいとずっと思っていました。

リガーレ仙台は企業母体を持たないクラブチームですが、どういう流れで立ちあがったのでしょうか?

ベルフィーユに関わった方々が中心になり立ちあがりました。ベルフィーユ時代から継続して応援してくれているスポンサーも多くいます。私は選手としてだけでなく、スポンサーやチームに関わる方々へのあいさつ回りに同行したり、メディアや講演会、SNSなどを通じたクラブの広報活動をしたり、いろいろな形で携わっています。

2016年リオの世界大会でもリベロとして活躍した[写真]Getty Images

毎年辞めたいと思っていた

これまでのキャリアを振り返ると、2014年に左ひざを負傷して、引退も検討していたそうですね。

2014年の年末に内側側副靭帯を伸ばしてしまい、歩くのも違和感がある状況でした。それまで椎間板ヘルニアや骨折などのケガもありましたけど、ひざをケガしたときは思うようなプレーができなくて、2015年に日本代表に選んでいただいていましたが、引退を考え辞退していました。

そのケガでどれぐらい離脱を強いられたのでしょうか?

私、休んでいないんですよ(笑)。そのシーズンに辞めるつもりで、どうしても試合に出たくて。完全燃焼するつもりで続けたんですけど、それからだんだん痛みが落ち着いてきて。病院に一回しか行かず、ちゃんと治していないので今も痛いんですけど(苦笑)。それで、「あれ、まだできるかな」と感じた矢先に、チームからキャプテン就任の話をもらい、もう1年続けることを決めて、そのシーズンはチーム最高成績の準優勝だったんです。で、次は2016年リオデジャネイロでの大会を目指してもう1年続けてみようと。毎年毎年辞めたいと思いながら、運や出会いに恵まれてここまで続けてきました(笑)。

2016年リオの大会ではメンバーに選ばれ、メダルには届かなかったものの、5位入賞の成績を残しました。

出場できたことはうれしかったですけど、メダルを取ることを目標にしていたので、5位入賞という結果はすごく悔しかったです。

世界一を決める舞台をずっと目指していたのでしょうか?

リオを意識したのは2016年に入ってからです。小さいころ、全日本で活躍する選手を見て「カッコいいな」とか、「世界で戦いたいな」とか思っていたんですけど、競技を続けていくうちにレベルの差を感じて、私にとって世界大会はずっと雲の上の存在だったんです。2013年に初めて全日本に呼んでもらったときも、リオを目指すと言われてもチームに残れる自信がなかったし、毎年辞めたいと思っていたバレー人生だったので、意識するのがなかなか難しい部分もありました。リオを目指すようになったきっかけは、2016年に本大会の候補選手に選んでもらったことで、そのときにこれまでのことを振り返りました。お世話になった方々全員の名前をノートに書いたらすごい人数になり、私はこんなに多くの方々に支えられていたんだなと感じ、その感謝の気持ちを、リオの舞台で伝えたいと思い、目指すようになりました。

リガーレ仙台ではバレーボール教室などの普及活動にも尽力[写真]リガーレ仙台

目標はVリーグ参戦

リガーレ仙台ではクラブを引っ張っていく立場になると思いますが、チームの体制は整ってきたんでしょうか?

2018年8月に始動したのですが、選手が4人しかいなくて、それからトライアウトなどを行って2019年3月中旬にようやく12人の選手がそろいました。地域リーグを戦うチームの中では充実しているほうだと思います。その中で私は、ずっとプレーしていたリベロではなく、始動時からスパイカーをやっています。大学の途中までスパイカーだったんですけど、身長160センチ台なので大変ですね。この年になって初めて“ジャンパーひざ”になりました(笑)。人数が増えたのでリベロに戻るのかなと思っていたんですけど、今も変わらずスパイカーで、慣れない動きも多く、最近まで肩が痛かったです(苦笑)。

Vリーグや全日本を経験して、今のチームのレベルをどう感じていますか?

まだ公式戦を戦っていないのでプレーのレベルは未知数ですけど、Vリーグ経験者がほかに2人いて、トライアウトを勝ち残った選手がそろっていますし、十分戦えると思います。私も含め全員がバレーボールをしたいと心から思ってリガーレ仙台に集まったので、ちょっとしたことではへこたれないですし、気持ちの強い選手が多いと思います。若い選手も多いのでこれからの成長も楽しみです。

練習環境はいかがですか?

Vリーグのチームの多くは専用の体育館で練習しているんですけど、リガーレ仙台にはまだ体育館がなくて、いろいろなところを転々としています。ボールなどの用具も自分たちで運ばないといけないので初めは大変だなと感じましたが、すぐに慣れました。練習は週6回やっていて、3月までは人数がそろっていなかったのですが、しっかりと取り組んでいました。リガーレ仙台では、私が今まで経験させてもらったことをすべて出し尽くします!

現場のスタッフは充実しているんですか?

監督とアナリストはいますけど、コーチもマネジャーもトレーナーもいないので、練習中のボール出しなども自分たちでやらないといけないですし、治療やケアも各自でトレーナーのところなどに通わないといけません。たまに練習を手伝ってくれるバレー経験者の方もいるんですけど。でもポジティブに捉えれば、これまでやらなかったことから学べることもありますし、ぜいたくは言いません(笑)。

最後に、これからの夢や目標をお願いします。

一番に考えていることは、リガーレ仙台というチーム名をいろいろな方に知ってもらうことです。競技の面でもそうですし、あまりお話しするのは得意ではありませんが、講演会などを通じて知ってもらい、応援してもらえるチームにしていければと思っています。また、Vリーグに参戦することも目標にしています。すべてが順調に進めば2020年に昇格できるはずなので、そこを目指して、そして最終的には日本一になりたいです。

自身の今後の選手キャリアはどう思い描いていますか?

今までは毎年のように辞めたいと思っていたのに、今はまったく辞めたいと思わないんですよ(笑)。高校3年生のとき、先生との進路相談で「保育士になりたいから辞めます」と話しながら結局続けて、大学でも「ベルフィーユでプレーできないなら保育士になります」と言いながらまた続けて、ケガをしたときも辞めようと思ったのにここまで来て。今までのバレー人生はいろいろな方々に導いてもらった感じでしたけど、今は自分の気持ちを一番に考えていて、できるだけ長くやりたいなと。リベロでプレーしたいなという思いを持ちつつも(笑)、スパイカーというポジションを任されていることを前向きに捉えてやっていきたいです。

大学時代以来のスパイカーとして新たなキャリアを歩む[写真]新井賢一

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