私が視覚障害を受傷したのは3才のときです。現在は、右目の視力が0.0、左目が0.01です。1メートル先がぼんやりと見える程度ですね。物心ついたときには、目が見えない生活でした。
私には、姉が2人いるのですが、小学校は、最初は私だけ盲学校に通っていました。私には点字を覚える必要があるからという理由です。しかし姉たちから聞く学校での出来事や友達との楽しいエピソードを聞くにつれ「自分も友達をつくりたい」「姉と同じ小学校に通いたい」と思うようになりました。盲学校は少人数制のため先生とマンツーマンに近い環境で、当時は姉たちをうらやましく思っていました。そんな私の思いを家族も感じとり、学校と自治体に相談の上、小学校3年生からの4年間は、通常の小学校に通いました。
視覚障害に必要なスキルを中高で習得し、大学では社会学を学ぶ
中学と高校は、視覚障害者が社会で生きていくための知識とスキルを習得した方が良いと考え、盲学校を選択しました。パソコン操作、音声ガイドや拡大鏡を使った文書作成など、社会で役に立つ実践的な学びを得ることができたので、盲学校に通って良かったです。
大学は一般の大学に進学し、社会学を専攻しました。合唱サークルにも所属して、友達もたくさんつくりました。この経験から、視覚障害があっても、障害のない人たちと一緒に活動できる自信がつき、一般企業に就職しようと決めました。
大学に情報収集しやすい流れがあったことが、就活のバイタリティに
大学では早いうちから就活を意識していたので、長期インターンシップにも参加しました。盲学校から同じ大学に進学してきた先輩方のネットワークもあり、情報収集しやすい環境も良かったです。実際にはたらいてみて得られたことは、パソコンを使う業務であれば、障害に関係なく、成果が出せると実感できたことです。就活の面接でも強みとしてアピールすることができました。
外資系医療機器メーカーの障害者枠に新卒入社。待遇は一般枠と同等でした
卒業後は、外資系医療機器メーカーに就職しました。障害者雇用枠での採用ですが、待遇は一般枠と同じで、昇級昇格も同等でした。私は人事部に配属されて、名刺発注システム導入プロジェクトに参画したり、福利厚生業務、人事データベース業務などを任せられたり、人事部内でいろいろな職務を経験させてもらいました。
一番長く従事したのが採用業務で、社内外の関係者とのやりとりが多く、人と関わることが好きな私にとって適職でした。仕事では様々なチャンスをもらったり、昇給したりと、満足したキャリアでした。また、プライベートでは、結婚して2回の育休を取り、仕事も子育ても両立させて、学生時代に思い描いたワークライフを送っていました。
10年勤続した会社を退職した理由
ちょうど2度目の育休明けでした。新型コロナウィルスが蔓延し、生活が一変しました。保育園は度々休園し仕事を休まなければならないことも増え、テレワーク導入で時間の融通がきく分、仕事のオンオフの切り替えがしにくい状態が続きました。子どもたちに我慢させることが増え、負担が大きくなったと感じるようになりました。悩みましたが、今は子育てに専念しようと、10年勤めた会社の退職を決意しました。