今、私はコンサルティングファームに勤務し、社内のドキュメント作成や管理などの業務を担当し、精神障害があること、LGBTQ当事者であることをオープンにしてはたらいています。採用面接の場で「自分はXジェンダーである」と伝え、社内のダイバーシティ活動やコミュニティにも参加するなど、入社して間もないですが、社風や企業文化を気に入っており、上司との関係性も良好です。良い転職ができたと思っています。
私は1,400グラムの超低体重児で生まれ、子どものころはとても体が弱く病気がちだったので、いつも周りの子どもたちやクラスの友達との成長差を感じていました。友達にできて自分にはできないことも多く、孤立感を味わっていました。
F1(フォーミュラ1)との出会いで転機が訪れる
自分に自信が持てなかった私が変わったきっかけのひとつは、両親と良く観ていたF1でした。小学2年生でF1のファンへ、3年生で始めたレーシングカートに夢中になり、毎週のようにサーキットに通いました。自分にできることが見つかって嬉しかっただけでなく、何かをしていて楽しい!と思えた最初の記憶ですね。
小5で憲法を学び、生存権を知って心が救われる
もう1つ私の転機になった出来事は、小学5年生のとき、公民の授業で憲法第25条の生存権について教科書の記載を見たときでした。生きることを保障し、誰もが生きることを国が認めている、と私は捉えました。それならば、「私は生きていていいのだ」と法律が保障してくれていることに心が救われたんです。物心ついた頃から自己肯定感が低く、男らしさというジェンダーに関しても周りとの違和感があった私は、自分は生きていてはいけないような気持ちになっていたので、ほっとしたような、安堵したような思いでした。
再びつらい中高時代。不登校からの転校
中学は地元の公立中学校ではなく、私立の中高一貫校に進学しました。ですが、学校まで通学に1時間30分かかり、体の弱い私は、通学するだけで体力を消耗し、正直つらかったです。土日はただただ休むだけ。大好きだったレーシングカートにも行けなくなっていました。また進学校だったので、先生たちの学業への指導やプレッシャーは厳しく、髪の毛が耳や襟足にかかってはいけないなどの理不尽な校則も多い環境でした。心身ともに少しずつ追い詰められていき、高校1年生の冬、それまで張っていた気持ちがプチッと切れてしまったんです。そして、私は学校に行けなくなりました。その後、母が見つけてくれた、不登校や学校を退学した子どもたちが通う自由な学校へ、2年生の春、転校しました。正直、人生終わったと思いました。
大切な友との出会い。大学では法学を専攻
転校当初の私は、人との関わりを持たずひっそり過ごしたいと考えていました。しかし、そこに通う生徒たちは、自由で、好きなことをして、笑って、楽しそうなんです。それを見ていたら、気づくと輪に入れてもらえていました。自分らしさを出しても良い環境、それを受け入れてくれる友達ができ、かけがえのない時間を得ることができました。
大学は法学部に進学しました。小学5年で憲法を学んだことがきっかけです。私の専攻は民法/消費者法でしたが、刑法にも関心が高く、大学では多くの判例を読んだりしましたね。