小学校は普通級に通いましたが、放課後は特別学級で過ごしていました。母の話では、子どもの頃は、学校からの呼び出しもよくあったそうですが、私自身は周りの友達との違和感はありませんでした。その頃から服薬していたので、状態が安定していたのだと思います。高校生か大学生くらいになって、たまに服薬しない日があると、気力がない、やる気が起きない、忘れ物が増える、自分がすることの手順がわからなくなるなどの症状が出るので、「やっぱり自分はADHDなんだな」と徐々に自覚するようになりました。
私は、高校1年生からカナダに留学していました。大学1年のころ帰国して、日本の大学に編入しましたが、眠れない、人から見られているような気がする、電車に乗ることも怖くなり、病院に行くと、不安症と診断されました。また、髄膜炎にも罹患し、入退院が続き、体調も元に戻らないので、大学3年生のとき中退し、実家のある大阪に戻りました。
大学中退後は家業の手伝いを3年、そして就職
その頃の私は、体も心も弱っていて、何をしたらよいかも分からない、気力はどんどんなくなり、これから先、自分に何ができるのだろうと、茫然とした気持ちで暮らしていました。生きる意味を考える日々でしたが、母が経営する美容院で経理関係の仕事を細々と手伝いながら、3年が経ちました。何も言わず、見守ってくれた母には心から感謝しています。
3年かけて、少しずつ回復し、社会復帰することができました。人材会社での経理の仕事に就きました。しかし、仕事に慣れてきた頃、新型コロナウィルスの感染拡大により在宅勤務になったり、社会が大きく変化したことで、私の体調もまた悪くなってしまいました。そのときも母は、何も言わず私を受け入れてくれ、私は、再び家業の手伝いをして過ごしていました。
主治医がきっかけとなったdodaチャレンジへの登録
dodaチャレンジを知ったきっかけは主治医でした。私の症状が落ち着いてきたため、主治医が、「社会復帰するための就労移行支援サービスがあるよ」と紹介してくれたのが「ミラトレ」でしたが、ミラトレと同じ会社で障害者専門の転職エージェントがあると知り、仕事を紹介してくれるならとdodaチャレンジに登録してみることにしました。早く復帰をして、母を安心させたいと思ったからです。登録後、キャリアアドバイザーからお電話をいただきましたが、とても感じが良くて、フランクに話して下さるので、緊張がほぐれたことをよく覚えています。私の話を寄り添って親身になって聴いてくれるので、とても安心しました。また、信頼できそうな方だと感じました。