私は、片耳に先天性の聴覚障害がありましたが、高校まで普通校に通い、学校にも友達にも聴覚障害があることをオープンにしていました。放送が聞こえづらかったときはメモで教えてくれたり、友達同士の会話が聞き取りづらいときは、そっと耳打ちしてくれたり、さりげなく配慮してくれた周りの友達にはとても感謝しています。
最初、障害があったのは片耳だけだったのですが、小学6年生のとき、もう片方の耳も悪化していると主治医に言われました。自覚はなかったのですが徐々に悪化していったようで、小学校の授業も、補聴器に加え、要約筆記の支援があった方が安心だろうと、ボランティアに付いてもらっていました。
大学は、聴覚・視覚障害者専門の大学に進学
私は、小さい頃から絵を描くことが好きで、中学では美術部に入り、高校はデザイン科に進学しました。大学でもデザインの勉強がしたいと思い芸術関係の大学を調べ、選んだ大学は、デザイン学科がある上に、聴覚障害者、視覚障害者のための大学です。聴覚障害者ならではの教育もあるのではないかと興味を持ち、大学生になって初めて、聴覚障害者が集まるコミュニティに属しました。大学では、口話、読話ができる学生も多かったですし、一方でコミュニケーションを深めるために私も手話を学びました。
聴覚障害者と聴者の橋渡しの存在になりたい
障害者のための大学に通って分かったことがあります。それは、普通校に通っていた頃の私は、「自然と周りの空気を読んで」いたということす。複数の友達同士の会話はどうしても入りづらいところがありました。会話の内容がわからないとも言わず、またそういった素振りも見せず、会話の流れを止めない方がいいかなと遠慮していました。それが私には当たり前の行動になっていたし、長年の積み重ねで「自分のことより、周りの空気を読む」ようになったんだと思います。
ですが、大学では、普通校を出ていることも手話が使えないこともマイノリティでした。そこでの生活で、周りに合わせるといったことは全然なく、「聞える」「聞こえない」も人の個性として受け止められるようになっていきました。手話に関しては、大学時代に、日常会話ができるまで一生懸命勉強しましたし、次第に聴覚障害者と聴者の橋渡しの存在になりたいと考えるようになりました。両方のマイノリティを経験したからこその発想だと思います。
夢はデザイナー。卒業制作との両立に苦しんだ就活
さて、大学でのデザインの勉強ですが、とても楽しかったですね!学べば学ぶほど、将来はクリエイティブな仕事がしたいと志望するようになりました。就職への意識も早くて、大学3年生で就職支援課に相談していました。夏のインターンシップは、デザインやクリエイティブの職種で3~4社の会社に参加しました。しかし、就活が本格化する大学4年生になったとき、卒業制作との両立に苦労してしまったんです。周りの友達の多くは内定が出ている中、先輩の紹介で受けた会社や、一般職での障害者雇用にも応募しましたが面接で不合格になってしまうなどが重なり、就活へのエネルギーがなくなってしまいました。卒業制作にのめり込むことで、就活は現実逃避。あっという間に夏になりました。