私は短大卒業後、大手商社に入社したのですが、芝居を続けたくて1年で退職しました。学生時代に熱中した舞台が楽しくて、社会人になっても続けていける環境をつくるため、転職を決意しました。芝居と生活のために派遣社員ではたらく二足のわらじ生活を30歳まで続けました。そして10年間思いっきりやった芝居に区切りをつけ、新しい人生を踏み出すことにしました。
転機となった30代。ライフスタイルの変化と40歳での転職
私は、大手飲料メーカーではたらき始めました。その会社も派遣社員でしたが、10年勤めました。当時の派遣法はまだ3年ルールがなかったので、同じ会社に勤続できたのです。その間に結婚し、2人の子どもを出産しました。
ちょうど私が40歳になったとき、事業撤退で私がいた事業部がなくなりました。派遣会社から部署異動の話もあったのですが、これを機に新たな挑戦をしてみたい気持ちが湧き、正社員としてベンチャー企業に転職することにしました。この転職がうまくいかず、短期間で転職を繰り返すようになったのです。
その後すぐに別の会社に転職できましたが、その会社も2~3ヶ月で退職してしまいます。そこから3社、いずれの会社も長く続くことはありませんでした。
そして、マネジメント職として採用された企業で就業していた際に発病しました。これまでのスタイルと違いすぎたからだと思います。派遣社員の頃の仕事は、定型業務かつ責任範囲も明確でした。ところが正社員になり、ずっとサポート職だった私が、部下のマネジメントも職務となり、仕事内容の変化は大きかったです。私は日に日に疲弊していき、半年で体調を崩して退職しました。
長期就業ができない原因は適応障害だった
私が適応障害と診断されたのは、コロナ禍のフルリモートワークでの環境下のときでした。気持ちに余裕がない時だったので、業務でわからないことがあっても、誰に相談すればよいのかもわからない状況で、仕事が思うように進められず、ストレスが溜まっていきました。
四六時中、仕事のことばかり考え、家事が手に付かなくなり、そんな私の異変に、家族が気づき、病院に連れて行ってくれました。私は覚えていないのですが、泣いてばかりいたそうです。
医師の診断を聞いて、「やっぱりそうだったのか」というのと、「私が、そんな病気になるの?」という2つの思いがありました。私は、小さい頃から活発で、小中高はバスケットボールをやって、関東チームの選抜選手にも選ばれたし、周りからは「いつも笑って明るいね」と言われていました。その私が、適応障害になるなんて、と自分自身が一番信じられませんでした。
しばらく休んで症状が少し緩和すると転職活動の再開。さらに悪化のサイクルへ
その会社は退職したのですが、少し症状が快復したので、自己判断でまたはたらき始めてしまいました。でも数日出社しただけで、体がまったく動かなくなり、とうとう入院するほど悪化してしまいました。医師から1ヶ月の入院が必要と言われたにもかかわらず、私はどうしても早く病院を出たくて、医師の反対を押し切り1週間で退院しました。今考えると、どうしてここまで自分を追い込んでいたんだろう、頑張ろうとしていたのだろう、と思います。
退院後も症状は一進一退で、病院を転々としました。実家の母親に世話になったりして、少し良くなったら派遣ではたらき、1週間も続かず退職、ということを何度か繰り返しました。そんなときに、就労移行支援事業所の「ミラトレ」を知りました。見学だけでもしてみようと、母に付き添ってもらいました。一人で外出すらできなくなっていたからです。